さすらい

 

 

私の空想はKobayashiのアトリエの中で勝手に時空を越えた旅をはじめていた。

夢遊病者のように過去と現在をつなぐ風洞の中をさすらい、秋の個展の今に至る

Kobayashiの仕掛けたArtの遊び心を読み解こうとする。

はじめに目に止まったのは恐竜の背骨の断片のようなオブジェだった。もう十年以上其処に転がっていたらしいが、今まで全く気付かなかったのが不思議なくらいだ。それが風を巻き起こし、次々に彼方此方に転がっていたちょっと古代の廃墟に渦巻く新たな生命力のような雰囲気をかもしだす作品群を浮かび上がらせた。

またしても、ヤラレタ!!これだからKobayashiのファンは根強いのだ。

窯の火入れ作業の手を休めたkobayashiと目が合うと、彼は今回の個展を表象する作品の釉薬をかける前の生渇きの土塊を指差した。

その瞬間、アトリエの中の時空を越えた風洞に共鳴する響きが、モンゴルの大草原を甦らせたのだ。

 

 

        見晴るかす四方、 天と大地と、 

くっきりと青と緑とに色分けられた大草原を真っ二つに裂いて、

         轍(わだち)の道は遙か地平線の彼方へと切れて行きます。

 

連射する機関銃を握り締めたようなjeepの振動に気が遠くなりかけた頃

                ようやく彼方に見えていた一つ目の丘を越え、

更に果てしなく広がる青と緑の世界に

             頭の芯まで真っ白になりかけた時二つ目の丘を越え、

夢と現の間で光の湖(うみ)の蜃気楼を追い続けた地平の果ての、

       そのまた果てのこんもりした丘の頂に、白馬のようにパオが輝き、

    そしてその懐ひろく

          フルンノールの湖が拡がっていたのです。        

 

 

jeepを降りた途端、高熱をおして大草原に挑んだ私は地の底から吹上げてくる風に煽られて倒れ込み、包(パオ)の中で横たわっている自分を取り戻したのは翌朝の寒気だった。

パオの外は広大なフルンノールの湖が足元に広がって居り、フワフワする足取りで霜柱を踏みしめながら朝日を浴びた湖面に近付くと、何か体感した事のない儚い感覚が冷たい足指から這いあがってくる。しっかり大地を踏みしめるように歩き出したその時、湖の畔の一面の霜柱があちこちできしみながら天に向かって六面の水晶体を次々に隆起させる幻影が甦り、今このアトリエの風洞の中でシンクロしたのだった。 

 

 

 

                     

                                ジャジャ馬馴らし

 

kobayashiの土とのバトルを秘かにそう呼んできた。他に適当な表現が見当たらないのだ。十年前から私の愛用している黒釉cupの土味はガイロ目と云う長石の粒が混じった暴れ土で、その土を使った個展では、手まめで血だらけになったと言っていた。

花器だけの個展の時は、ひとつとして同じ口造りのものがないのを不思議に思って聞き出した処 ”ロクロを廻しながら最後口造りの時にギリギリまで締め上げてバラけそうになる寸前に自由にしてやるんです” と考えもつかない答えだった。

近年の個展でGIGAと名付けられたタタキ皿、その制作風景はまるで刀匠が火花を散らしながら灼熱の地鉄を叩いて鍛え上げる、その姿と二重写しに見えた。 

さてさて、今回の個展用の荒くれ土も相当のジャジャ馬のように見える。

 

       釉がけはオーケストラの指揮者のよう

 

kobayashi作品のこだわりのひとつが生がけによる焼成法です。

素焼きしたあと釉掛けする通常の焼き方では、ほぼ想定通りの色合いに仕上がるようです。  ところが生掛けでは、土と釉薬との相性が微妙に反応しどんな色合いに変化するか、自然の力に左右される味わい深さを生むkobayashi作品の魅力のひとつになっています。

        黒の魔術師

  

初めてkobayashi作品を手に入れた時、他では見た覚えのない黒の衝撃を受けた。

以来kobayashiの黒は個展の度に新たなバリエーションで登場し、ワクワクさせられ、いつしか”黒の魔術師”とお客様に紹介してきた。

写真は日本独自の黒、桃山時代の武将好みが生み出した焼き物”引出黒”を灼熱の窯から引き出した処のスナップである。

私も様々な作家の引出黒を手に取り、鑑賞して来たが、kobayashiの引出黒はより銀化した独特のきらめきを放つ。