2011
卯
新春特集・JAPAN
Japan・欧米でそう呼ばれてきた日本を象徴する工芸品と言えば、蒔絵・漆絵などに代表される漆器である。かく云う私も、少年期にひそかに蒔絵師に憧れていた。道は開けなかったが、その気持ちは未だに心の奥底で燻り続けているようだ。
本当の意味での変化の年に挑む日本人の為に、原点回帰のスポットを当てたのが、この新春特集Japanである。
秀衡椀

源頼朝に攻め滅ぼされた奥州藤原一族の名残を想わせる秀衡椀。
その名の由来は別にして、そのゆかしい響きとともに、日本の時代椀を代表する幻の名椀として、垂涎の的となってきた。
後日談として、時代椀大観の47番にこの秀衡椀が掲載されている事を発見した。旧蔵者は平木清光氏となっている。
根来椀

古代から神聖な塗り物としてこの国で扱われ続けてきた丹塗り(朱塗り)。
個人的な見方だが、朱塗りの椀には、4つのストーリーが秘められているように思う。一つは神器・二つは僧坊の器・3つは武家の器・そして最後は堺衆を祖とする文化を担った町衆のうつわである。
この根来椀は室町時代に勃興した誇り高き町衆の面影を感じさせてくれる。
五客入り子の根来椀
民衆の椀・浄法寺椀

民衆の椀と言い切ってしまうと語弊がある。
漆絵の浄法寺椀や黒塗りの合鹿椀など、想像されるのは集落全体のハレの祝の日などに共有のうつわとして使用されていた物ではないだろうか。
しかし何故か、グッと身近かに感じられる温もりと懐かしさが感じられないだろうか?
江戸初期
時代蒔絵
数奇の道の厳しさ
俗に言う骨董趣味と数奇者の道は似て非なるものと思っている。
数奇はこの国の文化であり、骨董趣味は虚飾と掘り出し根性の自己満足と、私は勝手に分類している。
それはさておき、数奇を貫くと途端に手に入れるべきものは少なくなる。
それが、私の場合は時代蒔絵である。これまでに手にとって見た数は他の人の数倍にはなろう、が、実際コレクションとして手元にあるものは以下の数点だけであり、買いそびれ、のがしたものは一点だけであった。
Ⅰ、南北朝・和歌蒔絵手箱
蒔絵が余すところなく蒔絵の魅力を開花させたのは、南北朝期であると私は思っている。一辺から描く構図といい、和歌からとった意匠といい、そして、しんとあたりの空気観を静める黒と金銀蒔絵の陰影といい、このどこか侘しげな風情こそ、蒔絵の真骨頂だと感じられる。旧蔵者は幕末後藤象二郎と並ぶ土佐藩参与・福岡考悌である。
秋草蒔絵薬器・・・室町後期~桃山
棗の祖、古い時代の薬器・薬を入れた器・それも蒔絵のもの探しにやっきになったのは私だけではないらしい、珍品堂・秦秀雄氏もその一人と知ったのは、古本屋で昔の”小さな蕾”をまとめて買ってからであった。この薬器を買ったのは未だ20代のおしまい頃ではなかったかと思う。秦氏の記事を読んでから、薬器と聞けば奈良にも飛んでいったが、江戸も中期以降のものと私の目には映った。追い続けて何年になるのだろう、次の一点は未だ現れてはくれない。
一節切の笛・落梅と梅枝蒔絵の箱・・・・戦国時代
大森流・一節切(ひとよぎり)の縦笛は、戦国武将達に流行し,一笛づつ銘が付けられ、発注者名(比喜田源右ヱ門)と制作者名(大森盛春)、中を根来塗り、表は銘に因んだ蒔絵が施されている。
私は居合をやる関係で村正の脇差を守り刀にしているが、一族の命運を背負う戦国武将にとって、その絶望的な孤独から解放される手慰みとして、吾が命を絶つ脇差と共に、戦場にあっても肌身離さず身の回りに置いたであろうことは想像に難くない。
乱世に生きた武将にとっての音楽の愉しみは、この一節切の笛の音であったろう。
尚この笛を模して、利休は一節切の竹の花入れをこしらえている。
初期高台寺蒔絵・露秋草おもだか蒔絵箱
桃山時代を代表する高台寺蒔絵の一級品と言えよう。
実は、手に入れた後日談があって、古本屋で朝吹紫庵の売立目録をめくっていたら、重要美術品になった五鈷鈴と、それが納められた秋草蒔絵箱に目が留まった。
梵字の入った鍍金五鈷鈴は鎌倉初期の代表的な金工品として重要美術品の指定を受け美術館に収蔵された。
一方その秋草蒔絵箱は鎌倉の場末の骨董屋さんに流れ着き、私とめぐりあった事になる。やはり数奇を貫いたご褒美と云う他はない。
その目録には藤原時代と書かれていたが、私は高台寺蒔絵の初期の代表作とみている。
高台寺蒔絵・一枝菊蒔絵盆
岐阜の大垣で、待ち時間調整のために立ち寄った骨董屋さんで、偶然出遭ったものである。この地域は歴史的にお茶が盛んだと聞いている。この一枝菊の盆を干菓子器に使うとすれば、他の道具組みはどんな物がふさわしいかを想像すると、旧蔵者のお茶人の風体が浮かんで来た。旧蔵者印は柏陰斎とある。
外箱の高台寺什と云うのは一応信用しても良いのではないかと思われる。
一生かかってたったこれだけ?
そう、これだけでも、サラリ-マンコレクターとして、俗に言う貧乏数奇者(ビンスキ)の世界ではおおいばりでいられると自負している。
金持ちには業者は何でもハイハイであるが、ビンスキには美術的価値の余りない商材を雰囲気で売ろうするのが一般的である。自分の持ってる物を売ってでないと買えず、目が甘ければ二重の打撃となる。その厳しい環境だからこそ、目を鍛え、業者のセールストークに惑わされず、数奇の道を突き進まなければコレクターとは評価されないと思って来た。
前述した”のがした一点”の顛末は、2年後奈良博物館に入ったと耳にした。